老鶯

 百年待てば黄泉から帰るのだと言う。待ち人が亡くなれば、帰ることは叶わないのだと言う。
「私に百年、待てと」
 老人は、ただ肯いた。私は彼の死に顔を見とどけ、静かに冥福を祈った。


 私は彼の待ち人として、人の世を渡り歩いた。いく人もの人と出会い、いく人もの死に哭いた。
 いつかお前に会えるだろうと、老人は言い残した。私はその言葉を心の奥でくり返した。
 なぜ私を選んだのかと、不思議に思ったりもした。老婆は何も語らずに、墓穴の中の夫に土をかけていた。彼女の目に溢れるはずの涙は、いったいどこへ消えてしまったのだろうか。
 私は彼に、なぜ黄泉から帰るのかと訊いてみたかった。私が生きているうちには、甦ることは叶わぬのではないかと疑ってもいた。
 私はたった一人で、不可思議の辺境に取り残されていた。

 毎夜降る雨粒を集めては、ひりつく喉の渇きをなぐさめ、そこいらに生える草花をむしっては、ふるえる手で口に運んだ。時には役人が金を欲し、私をむち打ち、服をはいで持っていった。遠くの方で、やがて真上で雷鳴がとどろいたかと思うと、私の家も戦火にさらされていた。いつの間にか、この村もすっかり寂しくなってしまった。
 知人たちもすっかり老いていた。私の子たちは私より先に、遠い戦地で行方が分からなくなった。兵士にさらわれていった妻は今もまだ生きているだろうかと、思い悩んだ。
 光を失ってからは、月日を知ることが困難になった。外に出ることがままならぬこの老体では、かすかに聞こえる小鳥のさえずりだけが頼りであった。雨が止んで霧が晴れて、朝日の差しこむ木々の間を楽しそうに渡る声がいとおしかった。日の温みは薄暗い森小屋までは届かなかった。
 彼の老人を待つことだけが私の生きる唯一の目的であった。私が死ねば、彼は帰れない。彼との約束が、私に生きる執念を与えてくれた。たとえそれが、意味のないやり取りであったとしても。


 ある夏の朝。泣き声がするので目を覚ました。
 どうやらこの森に赤子が捨てられたらしい。私はよろよろと起きて戸を開け外に出てみた。
「お元気でしたか」
 と誰かが耳元で囁いた。
 私はひどく狼狽した。老いてはいたが、それは紛れも無く妻の声であった。
 何か言おうとしてはみたが、私は何も言えなかった。言いたいことが多すぎた。言葉に尽くせぬものが体の中を駆け巡り、目頭に熱い涙がこみ上げてくるのを感じた。
「この子をおぼえていますか。ほら、抱いてやって下さいな」
 私の腕にふわりと暖かいものが触れた。赤子はひっきりなしに泣いている。私は優しく抱いてみた。その温みが心地よかったが、いくらあやしてみても、泣き声は止まなかった。
「おお、可愛い赤子よ。泣くでない、泣くでないぞ。はは、泣くのはおよし」
 私は赤子をあやすのに夢中になった。ひさしく遠ざかっていた命の息吹が、私のそばにあった。
 ふいに赤子が泣き止んだ。その体が冷えて、重みだけがずしりと腕に感じられた。
「赤子よ、どこへ行く。まだ逝くのは早い。包んでやろう。暖めてやろう。なぁ、なぁ」
 逆に私の体が熱くなっていった。枯れたはずの涙が頬を伝って落ちた。涙は溢れ続けた。赤子を片腕で抱きかかえ、私は涙をぬぐった。

 そこに光があった。

 ひさしく忘れていたまぶしさを覚えて、思わず顔をそむけた。再び前を向くと、老いた男があお向けになって寝ていた。彼の面影は、私の若い頃の姿を思い出させた。
 否、それはまぎれもなく、私の顔だった。
 私はふと、自分の顔を手で触れてみた。顔を洗うたびに手にざらざらとした感触があったのが、今はつるつるとして、頼りない。手足の肌は若い頃の張りを取り戻していた。体全体にのしかかっていた重みが、気づくとさっぱりと取れていた。その感覚は違和感というより、途方も無い年月を失ってしまった焦燥感をともなっていた。

 赤子はどこにも見当たらない。

「百年待ちなさい」
 その老人は私に、細く弱々しい声で告げた。
 近いようで遠い、幻のような声だった。
 前にも一度聞いた気がした。前にも一度言った気がした。
 あぁ、と私は呟いた。そうか、とも言った。しかしその意味は、死の淵にいる老人の中へと吸いこまれていった。
 私はなぜ百年なのかと訊きたかった。私はそれを知っていたはずであった。
 私はまたも機会を逃してしまったのだろうか。何か言い知れぬ、口惜しさとも違う思いが心を掻き乱していた。
 それを知ってか知らずか、老人がもう一度言った。身を絞って出すしゃがれ声は、しかし穏やかであった。
「百年、待ちなさい」
 私はうなだれたまま、
「私に、百年待てと」
 と、応えた。

 老人は何も言わずに事切れた。彼に近づいて眺めてみると、その表情かおは穏やかな笑みを浮かべていた。かたわらに寄りそった老婆は、彼の冷えゆく体をそっと、そっと撫でていた。
 私は彼の冥福を、目を閉じ、静かに祈った。


私は何かを引きずったまま、人の世に帰っていくことにした。