物憂げな朝に

起きてからずっと催しているというのに、相変わらずトイレは「入ってます」の札が掛かったままだ。誰だ、俺の膀胱を破裂させようとたくらんでいるのは。荒々しくノックしても、返事もあったもんじゃない。下腹に押し寄せる荒波にこらえきれず、俺は「おい、誰か入ってるのか」と大声を出した。

寝室から義母が様子を見に来た。眠りを妨げられた恨めしさを視線に込めながら、「なんですか。騒々しい……」と云い残して台所へと消えた。蛇口をひねる音とコップに水が注がれる音が俺の神経を逆なでする。

いっそ飲尿療法を実践してやろうか。いや、確か経理課の菅が数年前にやってみたところ気分を著しく害して、一日会社を休んだことがある。休むための口実だったかもしれんが思いとどまるのには十分な理由だろう。

いかん。すでに二、三滴が漏れだしている。急がねば家族全員に醜態をさらしてしまうではないか。えい、なんだこのトイレは、ノブを回しても全然開かぬではないか。俺は札が掛かっているのに気づいてもう一度、今度は小声でトイレに向かって呼びかけた。「誰か…」

「パパ〜」

「うわわわ」

あわててパンツを押さえながら、俺は後ろを振り返る。まだ小学生になったばかりの長男の将義が、俺の肌着をひっぱって、「トイレに行きたいから、ー! そこ、どいて」と云うのだ。

ふ、ふざけるな。俺の方が先なんだぞ。俺は心の中で息子を怒鳴りつけた。しかし相手はまだ子供なのだ。なんと云っても、私の可愛い一人息子である。あの、あばずれ娘を除けばもう一人の娘とは大違いなのだ。「ほら、誰かが入ってるんだよ。もう少し寝てなさい」と優しくあしらって、俺はトイレを激しくノックした。

「早く出るんだ。もういいだろう」

自分でもなにかヘンなことを云っている気がするが、この際お構いなしだ。後少しで、俺の下半身は水浸しならぬ尿浸しになってしまう。

「あなた、いったい朝からどうしたんですか」

後ろを向くまでもなく、長年連れ添っている妻が、俺に冷たい視線を投げかけているのが分かる。母娘そろって、なんでこう人を思いやる気持ちが欠けているのだろうかと頭で毒づいて、顔では温和な表情をつくって振り向いた。

「いやなに、誰かがトイレに入ったまま、出てこないんだ」

また数滴。パンツの中が湿ってきた。額の汗を拭って、妻の反応を待つ。「誰かって……」と眉間にしわを寄せて、私に答えを迫る。

「そうだな、将義はさっき起きてきたし、おかあさんは台所だし」

「呼びましたか?」

不快感を言葉に滲ませて、義母が台所からコップを持って廊下を歩いてきた。「いえ、とんでもありません」またヘンなことを云っている。云っているのは分かるのだが、ついつい条件反射でそうなってしまうのだ。それ以上何を云っても無駄だと云わんばかりに、義母は自分の部屋の戸をぴしゃりと閉めた。

「また怒らせて……後が大変なのに、後が」と、妻が小声で俺を叱りつける。くそ、全てはおまえが原因だと、俺はトイレのドアにぶら下がった札を睨み付ける。そうだ。昨日の晩まではこんな札は掛かってなかった。丸文字で書かれた、花のマークをあしらったような札は。「おい、お前か。いつ帰ってきたんだ杏子。また朝帰りなんかして、お父さんは近所に合わせる顔がないぞ」と、トイレに呼びかける。

「あなた、杏子は今別府ですよ。もう忘れたんですか。ほら、卒業旅行……」「あ……」

俺はしまったと胸の中で舌打ちした。これをネタにして、杏子は俺を恐喝するに違いない。今度は単車か? それとも洋服か? いや、まさか俺の大事なアレか? 青ざめるのと冷や汗が出るのと、数滴漏れるのが同時にやってくる。「もう、いい加減にして下さいよ」俺を罵る妻の低い声など、俺の耳には届かなかった──という振りをした。「ははは。まあ俺も間違いの二度や三度はあるさ」よけいに自分の価値を下げてどうする? と自問しながら、じゃあ誰が入ったままなんだと妻に問いかける。

「誰も入ってないんじゃありません? 鍵だけが掛かったままで」

あ、そうか。家のトイレに付いているノブは、内側でつまみを横に倒すと、鍵が掛かる仕組みだ。もしドアを閉めるときに、横に倒したままだったとすると──それもあり得るな。よし、マイナスドライバーを持ってきなさい、と云おうとしたが、後のことを考えて、自分で取りに行った。ノブの真ん中にある、ねじの頭のような部分にドライバーの先を当てて、九〇度左に回転させる。そして、ノブを回すと──「ようやく開いたな。よし、入るぞ」

洋式便器のふたが閉まっていて、その上でニャン吉が横になっていた。将義が拾ってきた猫だ。そいつはぴくりとも動かなかった。さわってみると氷のように冷たくなっている。外ではまだ雪が降っているはずだ……。

いったんトイレから出て、「おい、お前」と妻を呼んでみる。奥の寝室から、将義と一緒に出てきた。俺が出てくるのを見て、将義が一直線に俺目がけて──トイレ目がけて駆けてくる。

あ、まずい。

「あー。ニャンきち〜。ニャンきちが死んでるよぉ」

大声で泣き出した将義を、妻がぴしゃりと叱りつける。「こら、そんなモノにさわったらキタナイでしょう」またそんな人の心を逆なでするような物言いをする。俺は唇をとがらせて「お前、それじゃ将義があまりにも」と云った。可哀相じゃないかと言い終わる前に、「これも躾です。あなたは口出ししないでください」と俺を突き放した。

絶句している俺を後目に、彼女はトイレを使うために、テキパキと作業を始めた。ニャン吉の死体を紙袋とスーパーのポリ袋に詰めて、生ゴミ袋を入れてあるポリ容器に放り込んで、塩を振りかけ(なんでだ?)、便器や壁などのトイレ中を、いろんな洗剤を駆使して洗って、なかなか泣きやまない将義を「一人でできるわね? もう小学生なんだもんね」と、その時ばかりは優しい母親らしい言葉でなだめて、トイレへと入れた。ああ、俺もあの姿に騙されたんだよなと、今も保母をやっている妻を、遠い風景を見るようにして見た。濡れた手のまま将義が出てきて、「ママ、タオル〜」と母親に甘える。

それにしても誰がこんな事をしたんだ。俺は便器のふたを開けながら考えていた。ニャン吉も苦しみながら死んだんだろう。元々年もくっていたようだし、やっぱり老体に真冬の寒さは堪えたんだろうな。ドアの裏側に残された爪痕を見ながら用を足して、ふうとため息をしてチャックを上げた。ああ、ようやく小便を出せた。漏さずに済んだぞとほくそ笑みながら、何故か顔面がひきつった。頭の片隅にある記憶が、俺に迫り始めていた。

そういや昨日は、帰ってからニャン吉の相手をしてたよな、と。