「それは君、私にも分からんことだってあるさ」
老教授は口にたくわえた髭をつまんでひっぱりながら、シャーレを片手にしてゆっくりと薬棚の方に向かった。棚の手前にシャーレを置いて、くすんだガラス戸の向こう側にある薬品の入ったガラスびんをラベルを一目で見分けて手にとり、そっとふたをおし開ける。
シャーレに向けてびんを靜かに傾けると、中から水色の液体がとろとろと流れおちていった。
「しかしながら先生、このままじゃ私は本社に帰れんのです。解説のほう、なんとかお願いできませんか」
老教授は薬びんのふたを閉めて棚に戻し、シャーレを手にとってゆっくりと戻ってきた。
「例の論文を、君は読んだのかね」
「は? い、いえ。とても一記者には読めるものではないです」
「そうだろう。その通りだよ。実は私も読んでいない」
私はあぜんとして、あんぐりと口を開けたままでいると、先生はこらえきれずにぷっと吹きだした。
「昨日の朝、若手の研究者が私の所に駆けこんできてね、息を切らせてこう言うんだよ。
『先生、一大事です、大変なんです』
何が大変なのかは皆目見当がつかないが、普段から冷静沈着をもって自負するような男が昨日に限っては珍しくあわてていたものでね、不思議に思ってこう訊いたよ。
『君は大変といっているが、それじゃあ君は何かね、私が何か発見したとする、その時君はどうするのかね』
『ええっ! 先生もですか!』
『いや、まだだが』
彼は肩を落としてうつむいてしまった。私は彼の肩に手をかけて、こう言ったんだよ。
『ところで、誰が何を見つけたのかね』
急に頭をあげるものだから、私もびっくりしたよ。さっきまで腰掛けていた椅子に尻餅をどすんとついてしまってね。まだ腰が痛むんだよ」
「先生、細かいことは省いて、大事なところを話してください」
老教授は急に後ろを向いて、シャーレを蛍光灯にかざして異なる薬品との反応を見ているようだった。全くの無言で、そのままの姿勢で動かない。
「あ、あの、失礼しました。締め切りまで時間が無いものですから、つい急いでしまって」
老教授は私の方を頭だけを向けて、すっとシャーレを差し出した。
「これを見たまえ。この小さな空間上で、命を取るか取られるか必死の格闘が行われている。その生死がこうして、光となって我々の目の前に現れるのだよ」
老教授は私にシャーレを渡した。私はそれをそっと手に取り、以意外と温かいことに気づいた。
「先生、これは」
「いや、単なる化学反応だよ。めずらしいものではない。しかし、興味深い。
ひとつひとつの物事には、それとなく興味引かれるものがあるが、私はこのような些細なことが気になってね、しかたがない」
「分かりました、先生。よーく分かりました、ありがとうございました。失礼します」
私は一礼して、老教授の研究室を後にした。老教授は何事も無かったように、シャーレを手にしたままそれをじっと眺めていた。
後に発表された彼の講演記録によると、どうやらこの頃、彼も発見の手掛かりを得ていたらしい。そうとは知らず失敬をしてしまった私といえば取り立てた代わったこともなく、科学部の一記者として取材の日々だ。たまに教授から送られてくるハガキを見ると、なぜ私ごときを憶えているのかまるで分からない。その裏にはいつもこう書かれてあるのだ。
「身近にあって、しかし私たちの目には留まりがたいほど、小さいもの」
そしてこう結ばれるのだ。
「ふとした瞬間、思わぬ場所で、我々に新たな道の在り処を気づかせてくれる」
(了)