ドアを開けた瞬間、私は立ちつくしてしまった。ただ真四角の空間に水が満たされていて、底からの照明がゆらゆらと差しているだけの部屋。天井には淡い光が散乱している。足を踏み入れようと一歩進むことさえ、水に濡れずにはできない。
靴底を少し浸してみる。水面に波紋が広がっていく。冷たい空気、そして水からは、カルキ臭さが感じられない。透明な水をじっと眺めていると、飛びこみたいという衝動に駆られそうだ。
「大切に保管されているのですね」
「何が?」
「水」
私より背の高い案内人は、私を見下ろしながら、片方の眉をすっと上げる。
「おかしな事を仰る。これは娯楽なのです」
水を溜めているのかと思っていたら、どうやらこれは違うらしい。
「どういった娯楽なのですか?」
「この水に流れをつくる。流れは速くうずをまいて人を呑みこむ。人は恐怖と快楽のあいだを行き来する」
何が娯楽なのか見当がつかない。ぐるぐるとうずに揉まれる人はやがて壁に当たる。上下左右が解らなくなり、気分が悪くなる。嘔吐するかもしれない。水は人の出すものでよごれる。
「これが娯楽なのです」
私は水の中に突き飛ばされた。静止していた水の中に流れが生じて、うずが私を呑みこんでいく。息ができずにもがくが、下へ下へと呑みこまれていく。どれほど手足で水をかいても、流れの強さに抗えない。意識は薄らいでいく。
壁が私の背中を打つ。肺に残っていた空気が泡をつくる。私は再びもがく。水面から顔がでた。私は空気を求めて口を大きく開く。水と空気を一緒に吸いこんで、肺は悲鳴を上げる。
「苦しさは生きることの難しさを人に知らしめる」
水から自力で這い上がった私に、案内人は無情に言う。娯楽とのつながりが解らない。
「この部屋は人を溺れさせるためにあるんですか?」
何も言わずに水の部屋のドアを閉めようとする案内人を、私は突き飛ばして逃げた。
(了)