夜、自販機の前

 夜。街の灯りは暗く、等間隔にぼんやりとした亡霊が立っているような印象をいだかせる。駅から歩いていると一台だけソフトドリンクの自販機があって、その蛍光灯によってわずかな空間がくっきりと切り取られている。そこに、携帯電話で何やらしゃべっている女。缶ジュースで喉を潤しながら、友人ととりとめのない話を続けているようだ。

 時折、自販機の前を人が通る。彼らは皆くたびれていて、退屈な安らぎが待つ我が家へと重い足を運んでいる。彼女は彼らに目をやることもなく、ここではないどこかにいる誰かと、たわいも無い話をえんえんと繰り返している。教師や同級生の陰口や、アイドルの出演番組について。続いて明日行くショッピングモールの場所の確認。また同級生の陰口。そして親のこと、成績や進学することについて。彼らも彼らで、彼女の存在にすら気づいていないような振りをする。同じ態度を自分の未来にも取っているのだろう。その表情からは、希望の欠片は見えない。

 彼女は携帯電話をバッグに落としこんで、自販機から足早に立ち去る。飲み残した缶ジュースが、自販機の前にポツンと取り残されている。どこからか来た野良犬が、その匂いを嗅ごうとしているうちに倒してしまって、まだ少しだけ残っていた中身が地面に流れ出る。舌でチロチロとジュースを舐める野良犬。その姿を見つけた少年たちが寄ってきて、食べかけのスナック菓子を手前に放る。野良犬は警戒しながら地面に落ちたそれを咥える。少年の一人が袋の中身を地面にぶちまけると、野良犬は尻尾を左右にせわしなく振りはじめた。

 とたんに、野良犬は横っ腹を蹴飛ばされて悲痛な鳴き声を挙げた。少年たちは面白そうに野良犬を蹴り続けようとする。野良犬は体を起こそうとするが、彼らの執拗な攻撃に屈してしまう。抵抗を止めた野良犬をみて、彼らは興味を失ったのか、そのままに立ち去ってしまう。野良犬はよろよろと四つ足で立って、ふらふらと路地に姿を消した。

 野良犬の鳴き声によって、浅い眠りから不快な現実に引き戻された老婆が、眉間にいっそう深い皺を寄せながら窓の隙間からその様子をずっと眺めていた。よく見えないが、また近所の子供が悪さをしているのだろうと思いながら、窓を閉めて鍵を掛けた。寝間着のまま部屋を出て、手すりにもたれかかりながら階段を下りる。廊下を伝って台所へと足を運ぶ。

 やかんで沸かしておいたお茶を一杯、湯飲みに半分だけ入れてゆっくりと飲む。今日は新月だ。天井から吊り下がった豆電球だけが、部屋の輪郭を朧げに浮かび上がらせている。彼女は部屋に戻ろうとして何かにつまづいてしまった。

 痛みを訴える声を聞いて隣にある肉屋の主人が目を覚ました。また隣の婆さんが何かしでかしたかなと首を傾げながら、彼女の店の前まで着の身着のままかけつける。下りたシャッターを二三度叩いて返事が無いのを確かめると、彼はぶつぶつ言いながら店の前にある公衆電話の受話器を取って、手慣れた手付きで大家に電話を掛けた。

 夜。たばこ屋のシャッターに張り紙がしてあって、都合によりしばらく店を休むと記してある。自販機の前、缶ジュースを片手に持ちながら、女は張り紙に目をやることもなく携帯電話で話をしている。今日からしばらく、筋向かいの洋品店が道路のよごれをきれいに掃き清める事になった。野良犬もしばらくここには近寄らないかもしれない。勤め人たちはいつもの様に、ここを通って我が家にたどり着くのだろう。

 たばこ屋のおばあちゃんが店を畳んだのは、それから一ヶ月ほど経った、よく晴れた秋のある日だった。