停留所

 風が私の心をなぶるように吹きすさぶ。
 私はコートの襟を立てて、風が頬を冷たく切り裂こうとするのを防ごうとした。

 私の前でバスが来るのを待つ老婦人は、しきりに時刻表を見てはため息をつく。
 列の中頃で、私は往来を行く人々が体を前に傾けて足早に歩く様を眺めて、自らの行き先に思いをはせた。

「やっぱりあのホテルはやめておけばよかったかな」

 後ろから携帯電話で誰かと話す男性の声がする。
 その中年男性は出張に来ていますと誇示するような大きなスーツケースを脇において周囲をキョロキョロとせわしなく見ている。

「寒い」

 私はおもわずひとりごちた。冷気が私を凍てつかせようとして、私は身体中をこわばらせる。
 左から右へと走る向こう側の車列に比べて、手前の車の流れはゆっくりとしている。クラクションの音や青信号を告げる警報音、バス停を通り過ぎて行く学生連中のたわいのない話と笑い声に、私は苛々とした。私はまだここに停まらなければならないのに、彼らはどうしてスイスイと進めるのかという理不尽な怒りが湧いてきた。
 しかし、と振り返る。
 今の私には、ここに留まることすら、もう意味が、ない。
 天気予報が珍しく当たるときは、決まってひどい天気の時だ。私は今朝の自分の油断を責め、空から降ってきた雪を呪った。

「積もるかな」

 列の最後尾あたりで若い女性の独り言が聞こえる。
 いや違うな。
 彼女もまた誰かと電話越しに話しているようだ。
 週末の予定を友人と相談しているのか、声は弾んでいるのに表情は暗い。無理矢理付き合わされているといった様子だが、大人でもよくあることさと心の中で冷笑する。

 列の前が少しざわつく。
 ようやくバスがやってきたらしく、目の前の長い車列の後ろの辺りを見て、自分たちの行き先の路線バスかを確かめているようだ。
 私もメガネ越しに、その電光掲示を睨んだ。あいにく私の乗ろうとしたバスではなかった。もっと遠くまで行けるバスを、私は待っていた。停留所に着いた時のアナウンスを聞き流しながら、隣の行列がバスに吸い込まれてゆくのを、なぜか羨ましく思った。

「まだかしらね」

 老婦人が私に話しかけてきた。
 私は自分に話しかけられたのを意識するのに遅れて、慌てて外行きの笑顔を浮かべ、腕時計で時間を確認してから答えた。

「そう、あと五分。ありがとう存じます」

 老婦人は軽くお辞儀をして前に向き直る。病院の診察券と保険証がトートバッグにあるか見てから、バスの乗車賃が揃っているか、硬貨を手のひらに並べて確認している。

 バスはまだ来ない。

 目の前の車列の後ろを眺めてため息をついたら、出張と思しき男性が手帳にメモを取っているのが見えた。必要な分だけバスの時刻表を書き写しているようだ。
 ポマードでなでつけた頭髪が揺れて、頭頂の輝きがチラチラと見える。なに、私も似たように禿げてはいるのだが。

「え、あいつ来るの」

 若い女性の悲鳴にも似た声。
 女性は周りの人からの冷たい視線に気づいたのか、声を抑えて会話の続きに戻る。

 アクシデントはいつも最悪のタイミングでやってくるものさ。

 私はこの後、どうしようかと思案した。
 私の帰るべき家は、実はもう無かった。
 年末の慌ただしさの中、妻に三行半を突きつけられた私が取った手段は、現実からの逃走だった。
 彼女にはかえって都合の良い旦那の反応だったのではないか。そう思うと腹立たしくもあるが、私は自分がどうしても理性的な人間であるとは思えないし、今まで愛してきたはずの家庭がこうもあっさりと崩れ去るものかという恐怖にも似た感情を消化しきれずに会社を無断欠勤して見知らぬ街へとやってきた。
 それが昨日のことだ。
 私はただの旅客。あるいは異分子に過ぎない。
 妻の発したたった一言が私を大きく狂わせる。いや、もう随分と前から実は壊れていたのに、言葉にしないと気づかない私が鈍かったのだ。私は自分が哀れなピエロのように思え、唇を少し歪めた。

 バスが、やってきた。

 順序良く車体に吸い込まれてゆく乗客となりながら、行き先のない私はそれに乗ってどこで降りたいのだろうと自問した。車窓越しに景色を眺める。鈍色の空と灰色の街並み。葉を散らせた街路樹。

 やがて吹雪始めた天候の中、バスはゆるゆるとお客を乗せて走る。

 私はもう景色を見るのもやめて座席で背を丸め、中身をほとんど捨ててしまって軽くなった鞄で顔を覆い、嗚咽を漏らさぬようにじっとしていた。