百年後の『供産国家』

「何で、歯磨きって言うんだろ?」
 私は、隣で歯の洗浄剤を使っていた友だちに聞いた。
「ずいぶん昔は、ブラシで歯を磨いていたんだ。今は選択的歯垢溶剤デンタルペーストを口に含んで、しばらくしてからうがいするだけで、済むけど」
 昔、ねぇ。
 私の覚えている昔より、もっともっと前の出来事。
 私たちには、まだまだ先がある。
「そういえば進路、先生から聞いた?」
「私? 私は……。
 製材カンパニーに行くことになったよ」
 友だちはすこし浮かない顔で、もう一度デンタルペーストを口に含んで吐き出した。洗面台の前に立つ私たちの姿が鏡に映っていて、私も友だちと同じような顔をしていた。

 『超高齢化社会』が拡大期を過ぎてから一世紀。
 急激な生産人口の減少と閉鎖的経済体制の進行で、国家の運用効率と資源抑制が重視される政策が支持された。
 そして国民の妥協と打算と怠惰が混ざり合った結果、私たちの進路や就職先は、幼年学校からの成績と生活態度、思考パターンや発言によって、自動的に国があるていど決めてくれる『新管理社会』が生み出された。
 集積公的知能がアウトラインを固めて、私たち一般市民は粛々と機械が促す『人生計画』に従う体制が、もう何十年も敷かれっぱなし。
 一応うまく運用されているのか、ここ数十年で全国的な抵抗運動やら何やらは、特にないらしい。もっとも、歴史のカリキュラムで教わっただけで、実際には起こっているんだろうけれども、大抵の一般市民は無関心。

 人間、努力しても無駄だと分かったら、楽をしたがる。……そうだよね?

「この歯磨きだって、楽を求めた結果なんだろうな」
「ん?」
 と、友だち。
「なんでもないよ」
 と、私。

 集積公的知能が作成した人生の設計図は、老後までの予測をもとに、大雑把といえば大雑把なんだけれども、だいたいの未来予想が描かれている。
 友だちが製材カンパニーに就職することが内定したなら、私にも、もちろん彼女にも、彼女の『老後』がわかってしまうのだ。
 成人前から労働力を国に捧げ、四十歳半ばごろまでに出産と復職を繰り返す。子供たちは出産直後から保育カンパニーが預って、そのまま幼年学校から大学校までエスカレーター式で送られていくから、親と子供は離れ離れ。私たちだってそうだったし、別にどうってことはないだろう。前期高齢者となる八十歳には退職、後期高齢者となる百歳からは老後施設で余生を過ごすという具合に。
 百二十歳で、友だちは人生からロールアウト。働きバチと女王バチ。その両方の役目をこなした果てに。

 私は、しかし、どうなる?
 先生から教えられた進路には、行きたくないな。進路をある程度選べるのは成績優秀者の特権ではあるけど、選択肢の幅が広いわけではないし。
 つまるところ、私はどこかの時点で出産しなければならないのだ。無痛分娩が当たり前になったとはいえ、前後の不便や苦痛、そして死ぬ可能性は、文明が進んでも進歩がない。
「ねぇ、どうせなら母親一人につき、子一人だといいのにね」
 私は冗談っぽく友だちに言った。友だちは真顔で返してきた。
「最低でも、三人は産まないと。百年後、私たちの子供が住む国が無くなっちゃうかもよ?」
 子供を国に納める制度が始まってから、今年でちょうど百年になるらしい。私はこの間の歴史の授業で教わった内容を思い出しながら、私たちが国に納められた当時の情景と、まだ見たことも会ったこともない『両親』を想像していた。

 私の子供たちも、その子孫たちも、国を親として育っていくんだろうな。そう思うと、少し、寂しい。