ため息をつく街

『希望の無い、閉じた世界』

ため息

ため息が耳を撫でる。熱い息をそっと耳元に吹きかけるように、長くゆっくりとしたため息が。辺りに漂うおぼろげな冷気にそぐわない、熱く湿っていて、艶めかしく、疎ましい、ため息。その吐息の中に、濃厚な死臭が混じっている。

あちこちの物陰からため息が聞こえてくると、人々は雨や『放され者』たちの襲来を警戒してビルの中へと移動する。やがて暗い空から赤い粒がぼとぼと降ってきて、ビルや道や側溝や逃れ損ねた人々や、時には放され者に、容赦無く害を与えている。街中が赤黒く染まって、鼻をつんと刺す臭いを残す。その間、雨の襲来を歓迎するかのように、ため息は止むことがない。まるで街中で葬儀が行われているかのように。

やがて雨も止むと、代わってため息の主である放され者たちが姿を現す。奴らは退化してしまった目の代わりに、鋭くなった鼻を犬みたいにひくひくとさせる。そうして餌の方向を確かめると、胴体を引きずりながら這うようにしてぎこちない前進をはじめる。

それはやがて長い行列となり、街の路いっぱいに広がる。

雨が止んだ霧の街。放され者たちの行進は続く。

遠景

人々はビルの群れの中に住む。そこから不幸にも追い出された人間は街中にほうりだされてしまって、薄もやの中で静かに息を引き取る。人は増え過ぎ、街も彼らを抱えきれなくなったのだ。雨は優しく街をいたわる。

街はビルの群れからなる。ビルは人が住むためにあり、人口に比例して無数に建造されていった。平地に丘陵地に湖にも建てられ、土地は無くなった。高さが要求され天へ天へと延びていった。それらは次第に傾き互いに支え合っていくつかの大きなビル群を形成していった。斜めになった部屋であっても人々は逃げ込むようにして住みついた。外にはもういると放され者しかいないたちに襲われるからである。

放され者たち食料にありつけなかった時、弱った同志を喰らう。人々のなれの果ては共喰いにある。

ため息が聞こえると人々は恐怖を覚える。

一日中錆びた鉄の臭いのする大通りは今日もぼやけた赤を帯びて、霧が濃く薄暗い。沈黙は隅々まで行き渡って、雨音か、幽かなため息以外は聞こえない。

耳をつんざく轟音、鉄と鉄が打ち合わされる音、石の壁が崩れ落ちる音、地の動。いくつかのビルが倒壊した様だ。

だが少しの間を置くと、辺りに再び沈黙訪れる。ビルの群れは中では人々が呼吸を潜めて、放され者たちは雨が止むまで姿を見せない。

泥にまみれた小さな生き物が雨に侵されながらそれでも動いている。体のほとんどが溶け出してしまいわずかにぜん動運動を繰り返すがなかなか進まず、苛立っているのか闇雲にのたくっている。長い筒状の体の先端を空へ向けて必死に何かを捜し出そうとしている。ひくつきながら、溶けながら、雨の害にさらされながらも目標の方向を定めようとする。灰色になった体は二つに分割されて力無く地面に横たわってしまう。何が足りなかったのかを考えながら自らの無力さを呪いながら。

足りなかったのはタイミングだった。勘違いが死を招いたのだ。

雨がすべての生き物に、平等に降りかかる。

住まう者

ぼんやりと赤い街は暗闇に浸される様に夜を迎えて、雨も止んでしまう。ビルの群れから人々は現れ、ビルとビルの狭間を忙しなく行き交う。その数は膨大で、またたく間に大通りは人で埋め尽くされる。彼らは思い思いの荷物を手にして、それぞれに決められた方向があるように秩序だった動きを見せる。少しの間、人々は雨の匂いに怯えながら移動を続ける。

ため息が聞こえはじめた。放され者が土から出てくる。低く長いため息を聞くと、人々はこぞって近くのビルに殺到する。もちろんビルのキャパシティは決まっていて、必然的に人々の一部分は通りに溢れる。たとえ倒壊したビルであっても、そこに逃げ込むことしか選択肢は無い。そしてビルがまた一つ、崩れ落ちる。

赤い土にまみれた放され者は餌の匂いを探る。逃げ遅れた人々、弱りきった友の居場所を探しているのだ。

悲鳴が、憂鬱なため息に変わり、代わりに沈黙がやってくる。

ノイズ混じりの霧

街を覆う霧は濃く、まるで街が白濁した液体に沈んでいる様。その霧の一部分が異常だ。誰も見る者がいないのに、宙に描かれた画像。だがそれは乱れている。もはや誰も読めない赤い記号の明滅。路に穴が穿たれている様子。先端に弓なりの鉄がついた棒を両手で握り、地面を二度三度と打ちつける人間。再び赤い記号の明滅。それらを繰り返している。

やがて、メッセージらしきその画像は色を失い、ついで形を崩し、ただのノイズが走る霧となった。とうに意味を失ったそれは、それでもかき消えずに、形を誰かに向かって発信し続けて、役目を終えられなかった。

ノイズ混じりの画像を映す霧は、誰かに何かを伝えるために存在した。

はぐれた彼

ビルからビルへと向かう人間の列から一人の人間がはぐれた。よくあることだ。この後大抵、は放され者の仲間となる。運がよければ元の列に戻れるかも知れない。しかし、必要とはされまい。誰に必要とされるかはともかく、彼らには彼らなりの秩序があるのだ。例えば、全体の秩序は一人の死に勝るといったたぐいの。

はぐれてしまった彼に表情は無く、たった今気づいた様に周りに目を遣っている。

ビル街の奥、路地は複雑な迷路となって、人影は無い。霧のせいであまりに不潔な姿をさらすことのない細く狭い路を、彼は何の苦労も無く奥へと進みはじめる。無表情のまま目だけが不気味に左右に泳ぐ。色々な物を踏み潰しながら、黙々と歩いている。

途端に彼は不自然な転び方で地面に伏してしまった。放され者だ。彼の右足首をつかんでいる。彼はそれを目で確認した後、無表情のまま、機械的な動作でその手を蹴りつける。

四度目の蹴りで放され者の手が取れた。皮膚下の白い骨がちらりと見え、濃厚な腐臭が漂う。恨みがましく見つめる目だけが、人間だった頃の、今の人々には無い生者の目だ。放され者が重いため息をつく。下半身は土の中。続いて上半身も沈み、頭と手だけが見える。放され者は皮肉な笑みを浮かべて、おとなしく土へと帰っていった。喉の奥から空気が抜けていくように、ひゅう、とため息一つ残して。

彼は立ち上がって、汚れを払おうともせずに歩こうとする。前屈みに倒れ足首の痛みを覚えるが、痛む右足を引きずりながら歩く。頼りない歩み。頬についた泥が乾いてぼろぼろと落ちていく。表情は無い。汗一つかいていない。目は前を見ている。

目の前にはノイズ。気化した発光体が集合して、彼に何かを伝えようとする。

彼はその霧を避けようとして、地面にあいた暗い穴に滑り落ちてしまった。

地下街

地下街はほとんど何かでまっもれてしまっている。あるところは瓦礫に、またあるところは廃棄物といった具合に。他には巨大植物の地下茎、様々な種類の骨、地盤沈下したビルの一階部分など。ともあれ人は地下を墓場と見なして近寄らず、放され者は地下を好んで巣にしている。

彼が落ちたのは何の変哲もない瓦礫の山。明かりは二つ、遠く天井から射す鈍い光と、ゆらゆらと揺れる淡い光。周囲の状態を視認できるようになるまでのわずかな間、彼は身じろぎ一つせずに闇の一点を見つめていた。ほこりはようやくおさまったようだ。カビの臭いは依然として鼻を突くが。

体の痛みも省みず、起きあがろうとして出っ張りにつまずく彼。頭上にはぼんやりノイズが走る霧の塊。彼はそれに興味を引かれる様子も無く、地上へと戻ろうとする。体は言うことをきかない。痛みは落下の衝撃を再生して、彼は無言の呻きを鉤状にした手で表現する。

無駄な体力を消費しないためか、生への執着を失ってしまったのか、彼は身動きしなくなった。

ふと、ふわふわと漂っている発光体を見る。その光は弱くて、彼の顔は優しく照らし出される。

彼は笑っていた。乾いた笑みが浮かんでいる。まぶたを閉じて、ふぅっと息をついてから、彼は宙に手を伸ばした。ふるえているその手を、そっと光が包む。

手は何もつかめずに力尽きる。

彼はいつの間にか深く不快な眠りに就いていた。その様子を発光体が、物言わぬ人形( ひとがた ) となって見つめている。

過去

過去。

目覚めは不意に訪れて、彼は人々の一人として振る舞っていたことに気づく。

他の誰もが意識も無く、反応するがままに生きていること。ここは『街』で、『人々』と『放され者』がいること。すべての土地には『ビル』が建てられていて、ここからどこか別の場所へいこうと思っても『壁』と『門』に遮られていること。

希望の無い、閉じた世界。

彼はしばらくの間、何も変わることはなく人として振る舞った。いつもの生活を続ければいいのだから難しいことではない。微笑みを浮かべる他人から訳の分からないガラクタを受け取って、悲嘆にくれる他人に手渡せばよかった。日常的に続いている奇妙なリレーを続けていれば、何の問題もなかったのだ。ある時は片方の頬をひきつらせたまま、ある時は緩みきった表情のままで、妖しい考えを頭の隅に追いやりながら。

そして彼がいつも通りに部屋を出て人混みの中に紛れ込んでいると、人々の列からはぐれてしまっていた。

霧は力尽きて

人形( ひとがた ) は元の霧状に戻って目の前に倒れている彼の周りを囲む。赤い記号の明滅。その間隔が短い。画像も同時に映し出されているが、ノイズがひどすぎて判別不能。辺りは交互に赤と黒に照らし出されて、いっそう不気味な印象を深める。

地下街の奥、闇の洞窟から響く声に耳を澄ましてみる。近づきつつある危険。赤い明滅は激しくなるが警告としては無意味。重く響き渡る長いため息。ノイズが激しい。紅い閃光は焦げ臭くて不快。火。何かが燃えている。彼は目覚めない。炎。勢いが増してくる。生と死の間で揺らぐ存在。瓦礫の山で、彼もガラクタのように動かない。地下街は廃墟、死の淵は紅く燃え上がっている。ここは墓場代わりの場所。ため息が響くところ。

ため息は聞こえてこない。火が消えた世界。沈黙した地下街。わずかに彼の呼吸だけが聞こえる。

霧は力尽きたのか、紅く染まったまま、千々に散ってしまった。

暗闇が訪れた地下街で、彼だけが意味をなしていた。

目覚め

彼の指先がピクリと動いた。瓦礫の一部をつかみこむように拳を握って、彼は眠りから覚める。不快感を眉間に、苦しみは弱々しい唸りに混じって、足先はふるえる。その顔に血の気は無く、唇は暗闇に融けている。闇だけが彼を優しく包むが、彼は拒否する。

生への執着、死の絶望感。その天秤が傾いている。

彼は体を起こそうとするが力無く、物言わぬ瓦礫と区別がつかない。水の滴る音がどこからか聞こえる。水の流れる音、せせらぎ。汚れきった街の、真っ赤な血流。その表面下に流れる濁流。しかし遠いのだろう、流れはここまで届いていない。腐臭はここまで漂ってこない。

瓦礫の山に伏せている彼。顔を横に向けると、片頬に冷たい感覚がある。視線の先には変わらない暗闇。見つめ続けているとどこかへ誘ってくれそうな闇。体はまだ思うように動かない。

彼は目を見開いたまま、ただ一点を見つめている。まるで死人のよう。人と放され者と死者。彼らの相違点は、存在する場所の違いだけかも知れない。行動に意味が無く、目の前は暗く。

彼はゆっくりと体を起こす。何度も失敗しながら、やがて立ち上がって歩きはじめる。痛む右足をかばいながら、不安定な足場で幾度となくこけながら、弱く光の射し込む方向を目指している。左手はだらりと垂れ下がって、後からついてきた付属物のよう。だが足を絡ませてつまずいた時、起きあがるために役立つ体の一部だ。意味はある。彼は皮肉な笑みを唇に浮かべながら、地上へと足を運んでいる。

ため息と霧の混じった街に戻ろうとして。

戻る

街。様々な人々がすむ場所。ため息が響く場所。静かに雨が降るところ。霧に覆われて、他人の顔をあまり見なくて済むところ。

放され者があいた場所を占めるようになったのは、いつからだろうか。人々は奴らに引き込まれないように高い塔に住み……。

ビルという名の、建造物の中。

入り口は岩がむき出しになっていて、苔むした庭園よりも、それらしく仕上がっている。

なまものが腐ってしまったのか、それとも何かの死体があるのか、独特の悪臭がする。だが、馴れればさほど気にならないらしい。それよりももっと酷いものが、街中に潜んでいるのだから。

そこに、人間の一人である彼が倒れている。周りには誰もいない。ビルに生息している連中は、この入り口を通らなければ外に出られないのだが、彼らがやってくる気配は無い。誰も現れず、一人苦しむ彼。息が荒く、表情は苦痛に歪んだままだ。

外は今日も霧で、見通しが悪く、薄暗い。ぼんやりと赤く染まって、誰も見たことの無い黄昏時をそれとなく演出しているような、もの悲しい空。静かな雨音。

沈黙を破るのは、いつも決まってため息である。

放され者が、ビルを覗いている。体の半分が溶け出しているが、這って内部に進入する。

それはため息をゆっくりと長く吐き出しながら、素早く彼のそばにまで接近してきた。警戒心が無いのか、それともこの状況を見越しての行動なのか。耳をそばだて鼻を利かせて、彼の息を確認する。

呻きと血の臭いと震えだけが確かに存在している。

放され者は干からびた喉から、ひゃっひゃっひゃっと音を漏らした。ご満悦といった様子だ。そして彼の手を握ろうと手を伸ばした。

どさっと、物音がした。なけなしの腕がちぎれ落ちていた。彼をつかむことは、もう出来ない。

放され者は首をかしげ、鼻にしわを寄せた。ううぅと低い唸り声をもらし、沈黙の後に、深いため息を吐いた。青い燐の炎が、その口に灯った。

その炎を、彼の耳にため息と共に、少しずつ時間をかけて吹き込んだ。

想い人の耳元で、愛を告げるように。

空白

彼はむっくりと起きあがった。何事もなかったように、無表情のままでになって。そのまま階段を急いで駆け上がり、廊下を走りぬけ、突き当たりの部屋の前で立ち止まって。

入り口のノブに手を触れ、強引にねじまげ。

何事もなかったかのように、部屋に戻り……。

再会

ノイズ混じりの霧が名も無きビルの中へ侵入する。あいにく対人設備なんてものも無く、たやすく奥へ進むことができる。目標があるのだろう。しかし居場所が分からない。面倒な方法だが、一フロアずつ、しらみ潰しに調べているようだ。

その不定形はフロア1120で停まった。部屋の手前で心持ち小さくなって、他の見えない住人たちに気づかれまいとしている。ドアの向こう、そこにいる部屋のあるじに、それは会おうとしている。

部屋

ドアの向こう、部屋の中は雑多な品物が散乱している。飾りっけのない壁。用途不明な調度品。そこに埋もれるようにしてもがいている人。向こうの窓から見える風景は黒。うっすらと近くのビル群が見える程度。部屋の中に霧は無くて、天井からの淡い光が部屋を照らして出す。部屋のあるじは荷物をまとめようと、ベッドの上の空きケースに次々とモノを詰め込んでいる。ベッドの上、最小限の寝るための空間さえも確保されていない。住み心地は決してよくはない。それでも斜めに傾いた部屋と比べれば、幾分かはましである。

彼は顔を上げた。表情の無い顔。すうっと立ち上がる。手早く服を着替えて水でヒゲを剃り、目のレンズを交換して全身に消臭スプレーをくまなく噴きかける。これでノーマルだと認識されやすくなった。手の汚れが目に留まって、また水桶に向かう。

ベッドの上の、モノがぎゅうぎゅう詰めになっているケースが騒ぎはじめた。上下左右に動いて、ここから出たいという衝動を抑えきれないといったパフォーマンスのよう。彼はそれを無視して、手を洗うことに余念が無い。

ケースから白い気体が漏れはじめている。強い刺激臭が部屋を満たす。彼は素早く手の水を切りケースの側に駆け寄る。右手を近づけると拒絶反応が始まった。手から腕へと黄色に変色しつつある。構わず彼はケースのロックを二つ、三つと閉めた。途端に放出が止む。額に汗が滲み出ているのに彼は一向に拭おうとせず、何事もなかったように振る舞う。品物の山が音を立てて崩れてしまう。騒ぎがおさまると、妙に静かである。だが識域下には微動する駆動音が流れている。ビル一つ一つが連動し、生活空間を形成しているのだ。気づかれないように少しずつ形を変え、人々を飲み込もうとするかのように。

大通りから門へ

外は、次第に霧が晴れてきた。珍しい現象だ。一年に二・三度あるかないかの機会。霧が晴れても未だ闇は深い。人々はビル群の中で安らかに眠り、放され者は土くれにまみれて息を潜める。

彼だ。彼がいる。

街の大通りへと続く小径を歩く人々の一人が、あのケースを手に提げている。ノイズ混じりの霧を身にまとって、表情は常に中性。

闇が紫に変わって、紫から青、そして赤へ。夜明けから朝への瞬間の移り変わりに乗ずる鳥など、もういない。生きる者は糧を得ることもなく右往左往の末に果てる。どのようなことを考えながらこの世界を歩くのか、彼は大通りへと足を向ける。

幽かに、ため息が耳を撫でる。

大通りを山の方へ進むと、放され者の数が増えて、常にため息が聞こえてくる。その方角へ足を向けることは、人間としての生が失われることを意味する。人々は無謀を好まない。

彼はその方角へと向きを変えた。何の表情も浮かばなかった顔に徐々に感情が現れる。

苦渋に満ちてきたその顔を見つめる者はいない。ため息はいつの間にか聞こえなくなり、彼の足音だけが虚ろに響く。

その地帯に足を踏み入れると、彼の体を包む空気の層は変化して、重みを感じられるまでに存在感を増した。

死の存在が近づいてくるような錯覚が彼の足取りを乱す。

彼の周りに漂っていたノイズ混じりの霧が、密度を下げて周囲に拡散していく。ぼやけていた彼の姿があらわになり彼は立ち止まる。霧はやがて見えなくなった。彼はなぜか手を軽く振った。

彼の視線の先には、開くことのなかった門と、高く街を囲む壁が、様々な時代のシミを浮かばせながら忽然と存在している。

彼は背のうから皺になった地形図を取り出して、自分の現在位置を確かめている。

視線を下げると彼の足首が地面から生えている手につかまれている。その手は彼を地中へと引きずり込もうとする。やけに力強い。彼は地図を放ってあわてずに腰のナイフに手をかけた。

背後から濃密な息が吹きかけられた。耳には無数のため息。それが幾重にも重なって彼の鼓膜をふるわせる。肌に感じられる空気は乾いていて、雨が降るまでまだ時間があることに気づく。鼻を突く臭いで不快感を覚える。彼にとってなじみのある霧の匂いでもなくて、調製されていない原始の臭い。舌が渇いていて、口の中がひりつく。目に映る者はすべて人々のなれの果て。放され者の、目の無い、鼻が落ちた、唇を欠いた、耳が削げ落ちた、それでいて口の端がすいと上がった、皮肉めいた顔。奴らは笑っている。人々の一人である彼は放され者に喰われてしまうことは無い。ただ仲間に加えられるだけなのだ。

人間としての、生を絶たれて。

人々と放され者

排出される廃棄物のように、人々はビル群からビル群へと向かう。行き交う人々の顔には様々な表情が浮かんでいるが、意味は無い。その表情はくるくると変わり、無闇に個性を出そうとしている。スイッチ一つで彼らの表情は消えそうな、うわべだけの顔。

霧は濃くなってきており人々の表情もやがて見なくても済むようになった。それでも彼らは顔をつくることを止めない。

雨が突然降り始める。大粒の雨が人々を叩きつける。人々は足を速めて近くのビル群に駆け込み、混乱しつつある。雨に侵されてしまった人々はあきらめて地に伏して死を待っている。だが大半の人々は穏やかな死は迎えられない。仲間に蹴られて、踏まれて、クズのように扱われ、死に至る。

ため息と共に放され者がやってきて、人々は彼らの手によって土の中へと運ばれていく。放され者は優しく人々を抱きしめ、自分たちの王国へと導くのだ。

雨が上がり、ため息が聞こえなくなると、人々はまたビル群から出てくる。時は経過していきビルは建て増しされ、いっそう大通りは暗くなる。霧はますます濃くなり地面は泥濘と化して、放され者は増えて人口もまた増加していく。いつ飽和状態になってもおかしくないような街。路にたたずむと、ため息が四方から耳を撫でる。

立ち尽くす彼

彼はどうしたものか考えあぐねていた。無防備だ。彼の周りには今や数十の放され者がいる。手に持ったナイフはどうやら役に立ちそうにない。ノイズ混じりの霧はまだ戻ってこない。ノイズ混じりの霧は契約に手間取っているらしいと彼は考えながら、足首を握る放され者の手をナイフで切り落とした。

放され者たちは長いため息をついている。それは徐々に調子が合わさって一つの大きなため息に聞こえる。まるで、どこかへと続いているように虚ろな響き。

彼は足首の手をたやすく引き剥がして捨てた。手を失った放され者がため息と共に土の中へと潜ってしまう。すべての放され者が還りはじめた。

雨が降り落ちてきた。彼は急いで物陰に身を寄せて背のうの衣服を取り出す。雨にも耐えられる重いコート。霧が濃くなり視界は狭く、見通しは悪い。街はすべてを拒否している。もう門や壁は見えない。すべては雨をまとっている。

ノイズ混じりの霧はまだ戻らない。その証拠に辺りに変化がない。街はいつもの様子。契約は効力を発揮していない。

円環はいつ切れるだろうかと、彼は無表情のまま首を傾げている。

ビル群の中でもっとも高い建造物を塔という。常に建て増しされるビル群の中で、どれを塔と呼んでいいものか明確な指針などはないのだが。

それでも人々が何万の単位で出てくるビル群を、特に塔と呼ぶのである。一つの都市といっても過言ではない。いや、この街こそは人々にとっての世界そのものだ。彼らはここから一歩も外に出たことが無いのだから。

街の外は無人地帯。常に雨が降り空気は何者も寄せ付けない。そこへ通ずる路は二つの門に阻まれ、街の周囲はビル群を包みこむほどの高さを持つ壁に囲まれている。

人々とは街に巣くう無数の寄生虫で、放され者と対をなす存在。食べる側と食べられる側、与えられる側と与える側。ため息に満たされるゆりかご。言葉をいくら重ねても人々の無表情は変わらない。

塔とは、そんな住人たちの象徴である。より高く、もっと高く。彼らは街から逃れるために生涯を懸ける。その営みはまるで罰を願う罪人のごとく、彼らの思考を捕らえていた。

捕獲

ノイズ混じりの霧は定形をとり人形として塔に入った。エントランス・ホールからエレベーター・ホール。数値入力して目的階へのアクセス権を明示する。外見は人々と変わらない。質量も密度も再現できている。中身までは読みとれない中途半端な技術力。少しの移動、階を示すメーターが止まる。ドアを手で開けると長い廊下。人影は無い。ここから最上階までは階段を使う。

一つ一つのドアの様子が違う。大通りを歩く人々の表情と同じで、無意味な混沌性を感じさせる趣向。ノイズ混じりの霧は上へと続く階段を探す。

だが何も無い。元の位置に戻ってみても、エレベーターが無い。廊下の両側にあった混沌も無い。ただ方形を描くように直角の曲がり角を四つ持つ。

気づかれたことをようやく悟って、彼は定形から元の霧の姿に戻った。霧が周囲の視界をぼかす。そこに不愉快な不連続画像が浮かぶ。彼はその様子から、ノイズ混じりの霧と呼ばれている。それ以外に彼と他の霧を区別するモノは無い。彼の個性はノイズ。不良品扱いを受けて回収もされずに路地に捨てられたが故に、人々の一人に与することとなったのである。

彼を迎え入れるように彼の周りに濃い霧が漂いはじめる。見通しは限り無く悪く、白い世界に迷い込んだ感じを受ける。その霧が彼を誘う。彼は導かれるままに空に浮かぶ、水滴のひとかたまり。彼の至る所にノイズが走る。歓迎か、それとも捕縛か。どちらにせよ彼に選択権は無かった。

街のぬし

その霧は混ざり合い何もかも主に捧げている様子。不定形のままのノイズ混じりの霧は近寄らず、かといって遠すぎないように距離をとっている。

主はゆっくりと定形をとる。会話をする気はあるようだ。彼のノイズに合わせたのかも知れない。彼も人形になる。

二つの個性が対面した。昔の人々の礼をまねて主の方から片手が差し出される。

ノイズ混じりの霧はその手を軽く握って、不敵な笑みを浮かべる。主はそれに微笑みを持って応える。ノイズ混じりの霧は自分の手を見て、霧状に戻っていないことを確認した。主は本当に自分に対して敵意を持っていないらしい。

彼は主に、契約を求めた。

契約

『霧が晴れると、街は彷徨う。雨が降らねば、街は膨れ上がる。ここにとどまらないなら、何処へ行く』

街は病んでいる。だが街は生きている。その矛盾が決意を鈍らせる。

契約に手間取っている場合では無い。だが街はかたくなに、彼らが街を変えようとすることを拒んでいる。長い間胎動を続けてきたことに終止符を打てずにいる。

『目的を失ったままこの街は彷徨い、肥大化して、閉じたもう一つの世界をつくってしまった。もう良いではないか。全ては無から無へと連なる、数多なる無為から模られているのだから』

ノイズ混じりの霧は首を横に振る。

『ちがう』と言いたかった。だが反証ができない。自分の行き先だけが見えて、どのようなことが起きるのかを知らないのだ。

『しかし。誰もがそうなのだとしたら』

ノイズ混じりの霧は主のふとしたコトバを感じた。

『われらはもう、お前たちのような者に命運を任せる時機なのかもしれぬ』

目の前の老婆は椅子から立ち上がって、手をノイズ混じりの霧に差しのべて、手を取り固く握った。静かな目をしている。穏やかで、何の感情も隠し通してしまうような。

『頼む』と言付かったと同時に、ノイズ混じりの霧は元の霧状の姿に戻ってしまう。周りはすべて乳白色の霧。何も見えない。だが、ノイズ混じりの霧の姿だけは見える。

主の笑顔さえ見えた気がする。

門を抜けて

雨は降り続いている。もうため息は聞こえない。霧掛かった街の空は物憂い赤に侵されている。

彼は雨宿りを続けながら、想像できる限りの外の世界を想う。

人々は雨に打たれ、放され者は自らの体をノミで穿って、霧は彼らを包み隠す。この街はもう終わるだろう。そんな予感さえする。

その想像は陰から陽を呼び覚ます。まるで、月を見て日を想うように。

いや、彼は月を見て目を覆うだろう。

ノイズが視界の隅に見える。ノイズ混じりの霧が近づいてくる。少し焦げ臭いのが証拠だ。ノイズとも火花とも見える光が彼の周りを優しく護る。

契約の履行は門が開くかどうかで分かる。彼らは雨を避けるように物陰から物陰へと移動する。はやる気持ちを抑えて慎重に進む。

濃い霧のせいで何も見ることができない彼をノイズ混じりの霧が導く。彼は導かれるままに霧に従う。

壁が手に触れた。壁伝いに歩く。壁は熱を帯びて、彼の手を火照らせる。彼は何も言わずに歩き続ける。壁は赤く光りはじめて、彼の手を焼いてしまう。手は壁から離すことができずに壁に呑まれていく。彼はもう動けない。左手は腰のナイフをつかんで右手に別れを切り出す。鮮血と共に彼の片手は壁に同化して、壁は物言わぬ石造りの壁に帰す。彼の口から呻きが漏れる。左手は背のうから包帯代わりの布を引き出し、右手首の上をきつく絞める。迷いか、憂いか、ここに脱出者の一部分を埋め込ませるのはなぜだ。彼の思考はそれ以上考えることができない。前だ、前に進むことだけを。

ノイズ混じりの霧は途端に静止した。ちらつく火花はそのままに、彼の視線を右側に反らせる。

空が向こうにある幻。青く、高く、眩しくて遠い。

青は無限に続く空のしるし。空は向こうにある。一歩、たった一歩踏み出せば、そこは門の外。街の外。何者にも遮られず、ビルなんてモノも無い。何も見えないようにも感じる。青いだけの空。幻のような。

彼はノイズ混じりの霧と共に門をくぐった。痛む右腕をかばいながら、彼は精一杯に背伸びをする。両腕を空へ伸ばすと、そのまま溶けてしまう気がした。ノイズ混じりの霧は静かに彼を包みこんだ。

門は開かれた時と同じように音もなく閉ざされた。街は壁に覆われて外からはその現在を知ることができない。見上げても見上げても続いている壁。それが街と外を隔てている。よく見ると無数の掻き傷がある。門はその姿を壁と同化させて、後には壁だけが残った。無限に高い石の壁は、街と外の世界との永遠の別れを物語っている。

静かな世界に彼は佇む。ノイズは彼の中にあり、彼は一人。彼に声をかける者は誰もいない。自由だ。彼と壁以外何も無い自由。

空を見上げていると暗幕が降りてきて、穴があいているのか、小さな光の粒が点々とあるだけで、暗い。

喜びがついえた彼は、元通りの無表情を取り戻していた。