時計塔のある街

モノローグ

時を刻むとは、また奇妙な言葉だ。時は流れゆく。それを刻んでしまうこと自体、何をもってしても不可能である。無理だ。時の流れを塞き止めることはできない。

しかし人は、時を刻むことを当然のこととして受け入れてしまった。観念的に時を刻み、天空の移り変わりによって時を刻み、時計なるものによって時を刻む。

時計。それもクォーツ。あの幽かな震動音。人はそれによって小さな年代記クロニクルにおける自分の位置を確かめている。形式上繰り返される毎日の流れに沿うように努力している。少なくともその為に、腕時計はその腕に巻かれている。

その文字盤に描かれた十二個の数字が、時の刻み目である。

そして彼らは、そいつらに支配されている。

狭いマンションの一室で、どうも落ち着かない様子の君。一週間前から、何やらせわしげに部屋の中を整理し始めていたね。鏡には、左から右へ、右から左へと行ったり来たりするその姿。今は部屋中のものをかき集めて、何か、荷造りしているし。

君の恐れている敵は、まだ姿を見せない。

疲れたのか、チノパンツのままでベッドに腰を下ろした君は、少し険しい顔になって、うっすらと伸びてチクチクとするヒゲの感触を右手に感じながら、一定の手順を頭の中で念入りに繰り返している時の、あの神経質そうな学者ぶった仕草を見せる。口元をきつく締めた途端にゆるめて笑みをこぼしてしまうあたり、いつもの君らしい。

本当に楽しいのかい? こんな時にでも? ──差しあたっての問題がなければ、人間ってのは案外『楽天的』になれるらしい。君のそんな毎日を見ていると、いつもそう思ってしまう。まるで、陽気過ぎる馬鹿を演じるのにも飽きたような役者。しかも、自分が役者だったことも忘れているような。

陽射しが斜めになると、すぐにあたりが真っ暗になってしまうのは、このマンションができてからずっと改善されてない。もうほとんどスラム同然だけど、まぁ仕方が無い。増えたら増やすしかないってことで、人間の数に合わせて自分たちの棲み家を立てていったんだから。

文句はいったい誰に言うんだろ? きっと、誰にも言えないに違いない。誰がこんな国にしたんだって怒る奴と、大差がないように。

明かりをつけずに窓からそっと下の方を眺めて見ると、君の部屋にチカチカっと光が差し込んできた。向こう側の、この近辺では一番古い、しかもいまどきの木造住宅からだろうか、この部屋の天井に光の輪が揺れている。弱い光で、薄暗い。わざわざ高いところから光を引っ張ってきてるわけでもなさそう。君には、この光源がなんであろうと関係ないんだろうけどね。

いまどきの光信号。ささやかで一方的な通信が終わると、部屋はようやく闇に溶け込んでいった。君の顔もようやく、鬼気迫るおっかない形相になってきたね。

君はもう、しばらくの間、笑うことはないんだろう。

手近にあるものだけをスポーツバッグに詰めて、急いで壁の主電源と補助電源を切ってしまう。これでもう、この部屋とも永遠にお別れってわけだ。

霧掛かったこの部屋の狭い入り口から、君は出ていく。半身になってドアノブに手をかけると、迷わずに思い切りのいいスタートを切る。

君の仕掛けたことだから、君に責任がある。

それを知ってか知らずか、君は入り口よりも幅のある廊下を、ゴム底のスニーカーで走る。もうその足音も、遠くに行って、ここからは聴こえなくなった。

君が十年過ごしたこの部屋も、もうすぐ長い眠りに就くだろう。それだけで君の所在は分からなくなってしまうから、たぶん他の誰かが、埋め合わせとしてここに入居することになるんだろう。君の顔をした、君の役割を擦り付けられたかわいそうな人間がね。でも、だからこそ、君はここから出ていった。この部屋も君を責めたりはしない。

ほら、もう何もかも見えなくなってしまった。霧が部屋中のありとあらゆる物を、あらゆるキズを消していく。そのうち、本当に何も無くなってしまって、後は五千の部屋を預かる管理人が気づくまでのほんの少しの間、そう、ほんの少しの空白を越えるだけで、君はもういない。

小高い丘を息を切らせて登ってきた人間。それがお前だった。お前は自分が何をしているかも分からずに、この森へと足を踏み入れてしまった。その足跡はこの場所にお前が侵入したことを告げ、追跡者の助けとなるだろう。お前が暖をとるためにおこした焚火は、お前の所在を明らかにした。お前はそれを知っていた。だがそれ以上の事実を、お前は見落としていたのだ。

お前はここに来るべきではなかった。この場所は、お前たち生きとし生ける者を封じる障壁として、この街を囲んでいるのだ。

ここに来た限り、お前はもう逃れることはできない。

お前の顔色が悪いのは、それを悟っているからでは無いことは、お前が一番知っているはずだ。もぎ取った果実の苦さに、思わず吐き出してしまったのは、お前の愚かさをよく証明している。

老齢の木に背もたれて眠りにつこうとするお前に、周りの木々までも白けてしまっているではないか。どうしてくれるのだ、この空気を。お前は汚すことを生業としているのか?

視線を感じているのか、落ち着かないお前の性分は、木の幹に抱きついたかと思うと、するするっと登ってしまった。太い枝を見つけて、ロープで自分の体をそれにくくり付けるとは、ますますお前の愚劣さをさらすようなものだ。

そこに、危険が迫っている。

お前はそれに気がついているのか? それとも、すべての者をだましきれると自負しているような、トリックスター気取りでいるのか? 片方の靴紐がゆるんでいるのにも気づかないお前がか?

何にせよ、結論はあとすこしで出てしまうのだ。もうお前はあきらめてしまっていて、後は野となれ山となれとでも覚悟しているのなら、まぁ、それもよかろう。

叢の影に見え隠れする小動物に驚いているお前が、何を画策しておろうが、もう遅いのだ。

お前は、ここを通り過ぎるだけで良かったのだ。そのタイミングを逃してしまった。

またひとつ、むくろが土に覆われる。

規則正しい足音が響いてくると、お前は途端に震え出す。

一体、お前は誰に助けてもらおうというのだ。

聞こえますか? 私はあなたに話し掛けています。覚えていますか? 私は塔の管理者をしていました。

私はあなたに三つのお願いをしましたね。

一つは、人との約束は忘れぬこと。一つは、人との約束は守ること。一つは、人との約束は果たすこと。

全ては、私との三年間は、泡となってしまったのでしょうか? あの時のあなたの快活な返事は、私の作った幻だったのでしょうか?

違いますよね。あなたは再び私を尋ねてくれているのですから。

足下に気を付けなさい。それを踏めば管理者の手先があなたを探しに来ますよ。横倒しになった大木を根元のほうに向かって沿うようにして歩いて下さい。できるだけ早く、まっすぐ私のほうへ。地面にぽっかりと穴が空いていますね? 遠慮せずにお入りなさい。私はここにいます。

こんにちは。久しぶりですね。

そこの椅子にお掛けなさい。おやおや、息を切らせて。これからが正念場ですよ。管理者を出し抜かなければなりません。

私とあなたが出会ってから、もう十年も経ってしまいました。あなたは未だに自らの成さねばならぬことを成しえていませんね。私としても残念なことです。

しかし今からは、あなたの存在はこの街にとって特別なものとなるのです。この計画の発案者である私と同じく、あなたは街の敵対者となるのです。

受け取りなさい。あなたが運ぶものです。あなたの運命そのものであり、この街の中心となるべき存在です。そして忘れなさい。故郷、友人、両親、恋人、子供。拒むことは、あなた自身を傷つけることに繋がります。

あぁ、乱暴に振らないで下さい。壊れやすいのです。私はこの歯車が、純粋な思考だけを保持できるように、工夫したのですよ。私の苦労を無に帰さないで下さい。あなたが何よりたよりなのです。

さぁ、契約を交わしましょう。不幸なことに一度は破られたものですが、あなたの勇気が過去の過ちを越えて、今ここに新たな契約となって、私とあなたとの間に交わされるのです。ベッドに横たわった私の黒ずんだ額に、あなたの指を重ねなさい。そして目を閉じて、指を沈めなさい。あなたは心の中の歯車を回すのです。手順はかばんの中にあります。ですが、時計塔のなかに入るまではけっして開けてはなりません。事前に知ることが、不幸を招くこともあるのです。十年前の、事故の時のように。

私の歯車はここで終わりです。

もう、時間が来てしまいました……。

つづく